僕が乗る羽田発・秋田行きの最終便は、午後八時過ぎのフライトだった。
少し早めに羽田へ行って、一緒に空港レストランで食事をしようという僕の誘いを、真紀さんは頑ななまでに拒んだ。特別なことはしてほしくない、今日がこれからの毎日に続くよう、ごく普通の一日にしたいからという理由だった。
とりあえず服に着替えて、僕は帰り支度を、真紀さんは早めの夕食の準備をした。やがて、パスタソースを煮詰める匂いが部屋に立ちこめると、僕は急に、空腹だったことに気がついた。有り合わせの野菜でサラダでも作ろうかと冷蔵庫をのぞく。野菜室にあった胡瓜とトマトが目に入り、このわずか二日足らずの出来事が走馬灯のように思い出された。
完成したトマトソースのスパゲッティは、兄と結婚していた当時から真紀さんの得意料理で、僕も何度となくごちそうになった。シンプルなのに味に奥行きがあるのは、たっぷり使ったオリーブオイルと、ニンニクや玉ねぎを弱火でじっくり炒めることで、旨味や香りが引き出されるからだろう。かつては兄のために作ってくれた料理を、真紀さんは今、僕のために作ってくれたのだと思うと、こみあげてくるものがあった。
「どうしたの? 懐かしい? それとも見飽きたかな?」
僕がテーブルに並んだ料理を感慨深く眺めていると、真紀さんはそう言って、僕をからかった。
「そうじゃないよ。これを僕のために作ってくれたのかと思うと、嬉しくて…」
「なに大袈裟なこと言ってるの。さあ、時間がないわ。食べましょう」
真紀さんは僕の席へと歩み寄ると、その柔らかい胸に僕の顔をぐっと押し当てた。驚く間もなく、今度は指先で僕の顎を掬い上げるようにして唇を塞いでくる。悪戯っぽい小悪魔のような手つきとは裏腹に、滑り込んできた舌はとろけるように優しかった。
僕が不意のキスに呆然としていると、彼女は何事もなかったかのようにテーブルの向かいの席へ座った。けれど僕は、押し当てられた胸の感触と、甘い香り、そして舌先の熱い余韻がどっと押し寄せてきて、さっきまでの他愛のない会話は完全に途切れてしまった。僕たちは互いに押し黙ったまま、ただ目の前の料理を口に運ぶしかなかった。
食後は僕がコーヒーを淹れて、夕暮れ迫るベランダに二つの椅子を並べた。真紀さんがカーディガンズの初期のアルバムCDをプレイヤーにかけ、僕らは暮れかかる街を眺めながらコーヒーを飲んだ。
時刻は午後五時。そろそろ出かけなくてはならない。僕はそう思って、真紀さんの横顔を眺めた。
「何よ。そんなに見たら、穴あくよ」
「覚えておきたくて」
「忘れてもいいのに」
「嫌だよ」
「忘れたほうが楽だよ」
「真紀さんは忘れるんですか」
彼女は答えなかった。やがて、小さく首を振った。僕は笑った。
「じゃあ、一緒ですね」
「困ったね」
「困りますね」
二人とも顔を見合わせて笑った。僕は笑い過ぎて、目尻に涙が浮かんだ。

真紀さんが食器を洗う間、僕は小さなキャリーケースに服や下着を詰め込んだ。真紀さんの横を通って玄関へ運ぶ。それでも彼女は何も言わなかった。玄関で靴を履き、彼女に呼びかけた。
「短い間でしたが、お世話になりました」
「うん、気をつけてね」
「羽田に着いたら連絡します」
「しなくていいよ」
「します」
「秋田に着いたら?」
「もちろんします」
「真面目だねえ」
「月曜日もします。火曜日も、水曜日も、毎日します」
「それじゃ終わらないよ」
僕は声を強くして答えた。
「終わらせるわけないじゃないですか」
真紀さんが、濡れた手をTシャツの裾で拭きながら、玄関に立つ僕に駆け寄った。すがるように抱きついてきて、「ぎゅっとして」と僕の胸に顔を埋めた。互いの鼓動が耳元に響くほどの長い沈黙が続き、ようやく真紀さんが体を離した。
「悠人くん…」
「はい」
「私、四十だよ」
「それ、何度も聞きました」
「あなたは二十八」
「ほんの一回り差です」
「秋田と東京」
「飛行機も新幹線もあります」
「私はあなたのお兄さんの…」
「元奥さん。元ということは、今は他人です」
「じゃあ、どうしたらいいの」
僕は少し考えた。
「今は、何もしなくていいと思います」
「え?」
「僕は今日、秋田へ帰る。月曜から仕事をして、またここに戻ってくる。真紀さんはいつものようにここで仕事をしてここで暮らす。そしてまた、僕を迎えてくれる」
「戻ってくるの?」
「もちろん」
「どうして?」
僕は一歩近づいた。
「真紀さん。あらためて言います。ずっと、ずっと好きでした。お願いします、僕と付き合ってください」
「悠人くん…」
「さあ、真紀さんも言ってください」
「命令?」
「お願いです」
彼女は小さく笑った。
「じゃあ言います。義姉と弟はきのうまでで終わりにして、これからは恋人として付き合ってください」
「わかりました」
「だから、今度会ったとき…」
「今度会ったとき?」
「ちゃんとデートしましょう」
「これはデートじゃないの?」
「そりゃあ、そうよ」
「じゃあ何だったのだろう」
「事故、もらい事故」
「もらい事故か」
「それも、かなり大きなもらい事故よ」
僕らは笑った。笑ったあと、二人とも黙り込んだ。僕は彼女を抱きしめて、別れ際のキスをした。それは長い抱擁ではなかったけれど、今までのどんな言葉より、確かなものだった。
羽田空港へ向かう電車の中で、胸ポケットのスマートフォンが震えた。真紀さんからだ。開くと一枚の写真が添付されていた。部屋のベランダからの夕暮れの街。ほかに文章はない。僕も写真を撮った。電車の窓から見える東京の狭い夕空。
「行ってきます」とだけ打って、真紀さんにそれを送った。 (了)